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第十条 お念仏の本質

本文

一 念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。

意訳

1、他力のお念仏には凡夫の計らいを混じえないことを本旨とします。それはお念仏は凡 夫の心も言葉も及ばず、到底、筆や口で説き尽す事ができない広大な世界であるからであります。

問題提起

 お念仏は凡夫の心も言葉も及ばないものであり、凡夫の計らいを混えないと言うのであるならば、何もわからないままに信じなさいという盲信を強要するように聞こえますが。

一、第十条の背景=知性を超えるもの

 迷信とは間違った道理を信ずることであり、盲信とは道理の無いことを信ずることであります。どちらも知性の働きを暗まし感情にのみ走ります。ここに迷信、盲信の危険性があります。例えば病人がこうした迷信に関わって医師の治療を拒んで、あたら助かるべき命を失ない、死を招いたという悲劇がしばしば繰り返されてきました。

 数年前、鹿児島教区南薩組、西福寺(住職、清水諄司師)の常例講座に行った時、法話が終り、話し合いの場で、一人の婦人がこんな質問されました。

「先生、私の親類が鹿児島市にいます。病人が出たり商売がうまくいかずその為でしょうか、人に勧められてある宗教に入りました。家族は熱心に朝晩拝んで信仰しているようですが、なかなか良くなりません。

 そこで、教師さんに聞くと、あんた方は熱心に信仰しているが、親類の者が信心しないから御利益が現われないのです。このお札を親類に配って朝晩拝んでもらいなさいと言われたので、その札を私の家に送ってきて、『どうか助けると思って拝んでください』と言ってきました。私はどうしたらよいか迷っていますが、先生どうしたらよいでしょうか。」 

と言われました。私はしばらく考えて、

「そうですね。それは結局、気安めに過ぎませんからむしろはっきり言ってあげられた方が却って親切と思います。宇宙の真理を見抜かれて説かれた仏様の教えによると、善い果報も悪い果報も自業自得で、それは他人がどうすることもできません。

そうしたことに迷わず今の現状を少しでも自分の力で解決するように努力しなさい。その努力をするために正しい仏様の教えをしっかり聞くように言ってあげたらどうでしょうか。」

と答えました。

 正しい宗教とはあくまで知性を包みながら、しかも知性を超えたものであります。それは現代の科学と決して矛盾対立するものではありません。しかしその科学の手の届かない問題、即ち生と死の人生の根本問題をまどかに解決するのが宗教であります。

 ここで私達がよくよく注意しなければならないのは科学と矛盾しないからと言って科学的な知識、即ち凡夫の計らいをもって受け止め理解しようとする過ちをしばしば起してきました。人間の計らいを超えたお念仏を、人間の知識で理解しようとする所に大きな誤りがあります。

 親鸞聖人当時も、凡夫の計らいでこれを理解しようとし、ここに異義異安心の間違った教えが生まれてきました。この誤りに対して聖人が鋭く戒めて、念仏には義なきを以て義とする、と仰せになったのであります。

二、計らいを離れる

 念仏は無義をもて義とす。即ち義とは凡夫の計らいであります。この計らいを離れて救うと呼び給う本願の前に、素直に信順することであります。

 今のこの言葉を師訓十条の最後に持って来られた唯円房の心持ちは、今迄説いてきた師訓十条を結ぶというお心持ちであります。それは初めに申しましたように第一条が総論であります。

 親鸞聖人の宗教は本願の宗教であって、その本願を総論として最初に掲げられたのであります。第二条より第九条まで各論であります。

 第十条は、各論の底に流れている心を明らかに示して、結びの言葉とされました。唯円房が大変悲しく思われたことは親鸞聖人亡き後、そのみ教えが乱れて間違った信仰、間違った教え、即ち異義異安心が広まってきたことでした。その原因は義なきを義とするお念仏に、義を加えたからであります。

 このことをやさしく申しますと、凡夫の計らいを離れて素直に本願のお救いを仰いでゆくお念仏のみ教えに、凡夫の計らいを混えて自分勝手な解釈をして、それを主張したからであります。

 そのことをはっきり見届けられた唯円房は、「義なきを義とする」という言葉をもって結びとされました。ここで義なきを義とする言葉の意味は,他力のお念仏には計らいの無いのをもって本旨とするという意味でありますが、それと共に、計らいの無いのが最もよい計らいになるという意味をも含んでいます。

 このことについて数年前、私のお寺のお盆の行事の日でありました。私のお寺では十四日からお盆の法要を勤めて、十五日の夜は生花を境内に展示しお盆の提灯を張り巡らして盆踊りを致します。

 その日はちょうど昼過ぎ夕立ちが来て準備が遅れました。私が三時頃、盆参りを済まして帰って来ると総代、仏婦、世話人、壮年会の人々が忙しく走り回って準備しています。私も何もしないと気がひけるので何か加勢をしようかと家内に言うと、「あんたが加勢すれば却って手が要りますから、加勢しない事が加勢になります・・・。」と言いました。私はこの言葉を聞いてなる程と思い私の部屋に入り、体を休めながら高校野球を聞いていました。

 その時、歎異抄第十条の念仏には義なきをもて義とす、即ち凡夫の計らいの無いのを本旨とする。また、計らいを離れることが最も善き計らいになる、と仰せになった言葉をしみじみ味わうことでありました。

三、不可称・不可説・不可思議

 親鸞聖人は他力念仏の本質を、義なきをもて義とすと仰せになってその理由を、不可称・不可説・不可思議とお説きになりました。この言葉だけ聞くと問題提起の欄に指摘されているように、凡夫には所詮わからない世界であるから理屈を言わずに唯、黙って聞きなさい、と言われているようにも思われますが、決してそうではありません。

 不可思議については第一条に詳しく述べましたが、仏の悟りの世界は迷いの凡夫には到底、心も言葉も及ばない所であります。その悟りの全体がお念仏に結集されて、私に救うと働きかけてくださるのです。この働きによってお慈悲が知らされて、ただおかげさまよと仰いでゆくのであります。親鸞聖人は歎異抄の後序の言葉に、

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはしますとこそ、仰せは候ひしか」。

と仰せになっていますように、我執煩悩によって曇らされた私達迷いの凡夫の眼に映る世界はどこまで行っても、迷いの世界の他ありません。その私に、どうして真実の悟りの世界を知り得ることができましょうか。

 それは月の光で月を見る。悟りの光によって悟りの世界を知るの風情であります。私の眼には四十万キロ離れた彼方の月は到底見ることはできませんが、月の光によってこれを見ることができるように、我々迷いの凡夫の眼には悟りの世界は知るよしもありませんが、悟りの世界よりの働きによってほのかに温かいみ仏のお慈悲が知らされるのであります。

 念仏には計らいの無いのを本旨とします。不可称・不可説・不可思議のゆえにとのお言葉は、理屈を言うな、ただ黙って信ぜよと言う盲信を強要した言葉でなく、み仏の悟りよりの働きによってお念仏の世界とは凡夫の計らう所ではなかった、ただ仰いで信ずるばかりであったと、明らかに信知されるのであります。この風情を熊本のおキクばあさんが、

私が見えずに向うが見える
見えたお方に名を呼ばれ
呼ばれたおかげで呼び手が知れる
ほんにおキクは世話いらず
なんと他力はありがたい

弥陀のお慈悲を聞いて見りゃ
聞くより先のおたすけよ
聞くには更に用事なし
用事なければ聞くばかり
なんと他力はありがたい

と詠っておられます。

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