輝くいのち/賞雅哲然 目次
第十五章 生と死を考える
賞雅先生、人間が死んで新しく次の世界へ生まれ変わっていく、そんな事は私達の知識では到底受け入れられません。そんな馬鹿な事が、と一笑に付すでしょう・・・・。けれども私達にはそんな世界がなくては到底救われませんね。
一、 科学より宗教へ
これは数年前、鹿児島市の山口外科病院の院長、児玉清章先生と話し合った時のことです。
「先生、私達が一番苦しい思いをするのは癌の患者を預かった時です。今日の医学では精密検査の結果癌であるかどうかはっきり解りますし、また後何ヵ月位の生命という事もだいたい知る事ができます。『先生どうだったでしょうか』と恐る恐る聞きます。けれども医学界では本人に知らせない事になっています。それを知らせると、患者が気落ちして死(し)期(き)を早めるからです。
『そう大した事はありませんから心配要りませんよ。』と言うと、患者の顔にホッとした安堵の色が現れます。『先生ありがとうございます。』と言う声を背にしながら部屋を出る時の辛さ、多くの場合、患者はまだ不安が残り、付添人を院長室に訪ねて来させ確めさせます。『先生本当はどうなんでしょうか、もう一ペン聞いて来いと申しますが・・・・』その時もやはり本当の事は言いません。
そうした事のあった晩は、ベッドで私は思うのです。医者であっても自分の病気は自分では解らない。私が他の医者にかかった時には、恐らく今この患者に言っているのと同じ事を言われるのではないか、と思うと私には、死の問題がひしひしと真剣に考えさせられます」
その時私はこの言葉をじっと胸に受け止めながら、しばらくして、
「そうですね、人間誰しも死を免れる事はできませんね。その死を超えていくのが宗教の世界でしょう。」
と言って、最近門徒の中であったお話しを致しました。その当時、曾山よねさんという八十五才のおばあちゃんが亡くなりました。かねて信仰の深い人で、長く明信寺の仏教婦人会の幹事をされて熱心に御法義を聞いておられました。時々孫娘が東京から帰ってくる度に、よく言っておられたそうです。
「生命終っても死ぬのではないのよ。生命終った時にみ仏の世界に、仏と生まれ変わるのよ。あなたも仏様の教えを聞き御念仏を喜んでくれるならば、たとえどんな悲しい別れをしても、またお浄土で逢えるのよ。」
と、この話しをした時にこの院長先生の顔色がサッと変わって、はじめにあげた言葉が出たのであります。実験実証による科学の洗礼を受けたこの院長先生には、当然の言葉でありましょう。けれども私は最後の言葉が胸に響きました。
「私達の知識ではそんな馬鹿な事がと一笑に付すでしょうが、しかし人間にはそんな世界がなくては到底救われませんね。」
という言葉であります。人間は、ただ合理的、実証的科学の世界だけでは本当の救いは得られない。科学を超えた宗教の世界に到達した時にこそまことの救いがある、という事を感じることでした。
親鸞聖人は、
“生死(しょうじ)出ずべき道”
と、仏法を受けとめられました。この言葉は深い意味を持っています。先にも述べた様に迷いの、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上の六道の世界を、生まれては死に死んでは生まれゆく流転の姿を生死(しょうじ)といいます。即ちこれは、迷いの中にある事を意味しています。それを出る事ですから、迷いの世界を離れて悟りの世界へ生まれゆく事です。それは言葉を変えていえば帰るべきまことの世界、生命の故郷を知らされた事であります。親鸞聖人は、
“法性のみやこへかえる。また寂静無為(じゃくじょうむい)の楽(みやこ)に入る”
と仰せになりました。ここに私達の生活が、浄土の光に導かれた生活と変わるのです。そこに明るく生きる喜びと,大きな安心が恵まれます。
二、人生の大きな矛盾
私達は毎日、忙しい忙しいと走り回っていますが何の為に、目の色変えて走り回っているのでしょうか。家族の為とか社会の為とか美しい事を言っていますがそれも、もとより全く無いとは申しません。けれども私達が走り回り働き続けているのは、もっと深い所に理由があります。それは生きんが為でしょう。生きとし生くる者は、人に限らず、すべて生きんが為に働き続けているのです。世の中にはお金さえあれば何も要らない、という人がよくあります。
「ではあなたに一億のお金をあげるから、来年正月には、あなたの生命をください。」
と言われて、そのお金と生命を換える人があるでしょうか。何時何時までも生きたい、これが本音でしょう。私はこの事を思う時に、青年時代の一つの経験が頭に浮かんできます。
親しい人が死んだ、と聞くと何かさみしさを感じながら、あの人も亡くなられたか・・・と思いつつ、けれどもあの人はもう相当年をとっておられたからな・・・・と、自分に言い聞かせました。それは取りもなおさず、年をとっておられたから亡くなったので、自分はまだ若いから死なないぞ、と言い聞かせて死の恐ろしさを避けようとしていたのです。
同じ年輩の若い人が死んだ、と聞くとあの人は死んだかかわいそうに・・・・けれども平素から身体が弱かったから・・・・・と言い聞かせました。それは自分は元気だからまだ死なないぞと言い聞かせて死の不安から逃れようとしていたのです。
また、若くて元気な人が突然事故か何かで死んだ、かわいそうに若くてあんなに元気があったのに、結局運が悪かったのだ・・・・・と言い聞かせました。それは自分は運が強いから死なないぞ、と言い聞かせて死の苦しみから目をそらそうとしていたのです。
こんな事を思うと人間の本性は、ただ生きたい、という生命欲の固まりといえましょう。そうした私が立っている人生は、今晩の生命をも保証されない無常の世界であり、やがて必ず滅びゆく有限の世界であります。即ち、永遠の生命を求めて止まない人間が無常有限の世界に立っている、ここに人生の大きな矛盾があります。この生と死の大きな矛盾に目覚めつつ、それを超えていくものが真実の宗教でなければなりません。
三、 不安と迷信
これ程科学が進み、人智も向上しましたが、依然として迷信が絶えません。今日ではむしろ文化の高い都市から田舎の方に、逆移入されている状態であります。世間ではよく、迷信の発生する理由は科学的な知識が乏しいからだと言われていますが、それも原因の一つではありますが、実はそれだけではなくて、もっともっと深い所に大きな原因のある事を見落としてはなりません。
今日現代建築の粋を誇るビルの屋上に、赤い鳥居を建て狐を祭った社(やしろ)が設けてあったり、近代医学の粋を誇る病院に、四番病棟や四十二号室が無い事は、何を物語っているのでしょうか。また、宗教なんか過去の遺物で現代人には何の価値も無いと豪語している若い人々のマイカーに、殆んどお守り札が下がっているのは、何を意味しているのでしょうか。
こんな事を静かに考えた時に、迷信の発生する根本的原因を知る事ができます。それは先に申しました様に生命の不安が、迷信の根本的原因なのであります。ドイツの哲学者ハイデッガーは不安の哲学を説いて、
「現代人は何故、こう落ち着く事ができないのであろうか。それは意識するとしないとにかかわらず、常に死の不安に脅かされているからである。」
と申しました。従って如何に科学が進歩し人智が向上しても、人間に生命の不安が解消されない限り迷信は依然として、人類の上につきまとう事でしょう。親鸞聖人が一切の迷信を払い捨てて、祈り無き宗教を宣告されましたのは、み仏の大悲に目覚め大悲に抱かれつつ、生命終わった時に必ず浄土に生まれゆく、という確信があったからです。即ち還るべき生命の故郷を知らされた喜びと大きな安心の中には、もはや迷信の入り込む余地は全くありません。
私が幼い頃、よく聞いた言葉に、門徒もの知らず、というのがありました。門徒とは言うまでもなく関西地方では、浄土真宗を指しています。浄土真宗はどんな愚かな者でも救われていく教えであるから、他の宗教の人達が真宗の門徒の人々は何も知らないと批判して、門徒もの知らずという言葉が生まれたのだと私は思っていましたが、実はそうではなかったのです。
それは過去徳川時代には、日本人の生活は全て迷信によって規定されていました。例えば七日の日には旅立ちしてはいけない。赤口(しゃっこう)の日は、大工は高い屋根に登ってはいけない。友引には葬式をしてはいけない。また女の人は、何々の日は針を持ってはいけない、等とされていました。
そうした中に浄土真宗のお念仏を喜ぶ人々は、旅をしてはいけないとされている七日にも平気で旅に出る。友引の日にも知らぬ顔して葬式をしている。こんな姿を見て他宗の人々が驚いて、門徒の者は無茶をする、何であんな事を平気でするのか,それは今日は葬式をしてはいけない日、旅立ちしては悪い日、という事を知らないからあんな無茶をするのだという所から、門徒もの知らずという言葉が生まれたのであります。
こんな事を静かに考えてみた時、人々の生活が全て迷信に支配されて不安の中に日を暮らしていた時代に、一切の迷信をすっきり払い落して何にもとらわれる事なく全く自由な明るい生活をしてきた私達祖先の生き方は、誠に素晴らしいと思います。
四、人間に生まれた喜び
中国に担板漢(たんばんかん)という言葉があります。これは板を担(にな)った男という意味で、これについてこんな話があります。或る男が、大きな板を肩に担(かつ)いで郊外の友人を訪ねました。そうして言うのには、
「この町は変だなあ、大抵の町は大通りを挟んで両側に家が建ち並んでいるのにここは片方ばかり家が並んでいる。どうしてこんな町を造ったのか。」
友人は、
「そんな筈がない。両側に家が建ち並んでいた筈だ。」
「いや確か片方しか家並は見えなかった。」
と言ってゆずりません。そこでよく考えてみると板を担いでいた為に、反対側の家が見えなかったのです。一面ばかり見て他の一面を見ない人をそれから担板漢と呼ぶ様になりました。
私達の人生の生き方を静かに考えてみた時に、こうした人を笑う事ができるでしょうか。花が咲くのも人生であれば、花が散るのも人生であります。生きつつあるのも現実であるならば、死につつあるのもまた現実であります。けれども私達は、花が咲く一面のみを見て花が散る事を見忘れてはいないでしょうか。生きつつある現実にのみ心が奪われて死につつある事を見落としてはいないでしょうか。もしそうであるならば、担板漢のそしりを免れる事はできないでしょう。
仏教は仏の説かれた教えであると共に、また仏になる教えであります。仏とは仏陀、覚者の意味でそれは、目覚めたかたの説かれた教えであり、また目覚めた者になる教えであります。目覚めるとは色々な意味を持っておりますが、その一つは人生の真実の姿に目覚める事であります。釈尊は、早く人生のありのままの姿に目覚めなさいと説かれました。それは生きつつあるままが死につつある、という事に気付く事です。蓮如上人はおごそかに、
“かねて頼みおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあいそふことあるべからず。されば死出(しで)の山路(やまじ)のすゑ、三途(さんず)の大河(たいが)をばただひとりこそゆきなんずれ”
と諭されました。誠に私達の苦労によって積み上げた財産も築いた名誉も地位も、死の前にはもろくも崩れ去ってしまいます。私達は真剣にここに死を超えて、生きる道を求めねばなりません。
私はこの事を思う時に、かって学生時代に開いた、念仏一筋に生き抜かれて人情大臣と親しまれた望月圭介氏のお話しを思い浮かべるのです。望月さんがかって内務大臣をしておられた頃、大阪城の天主閣の改築工事が行なわれました。この工事の状況を視察に見えた望月さんは、案内されるままに一応巡察された後で、今度は一人で工事現場に出かけられました。ちょうどお昼時で、人夫の人達は焚き火を囲みながら弁当を食べています。望月さんはその人達に、
「あなた方はこうして一生懸命働いていますが、一体何の為に働いているのですか?」
と問われました。これが先程の大臣とは誰も気付きませんから、変な親父が来て妙な事を聞くもんだと思いながら、
「私達は、こうして働かなければ食べていけませんから。」
と答えました。望月さんが、
「では、何の為に食べるのですか。」
と問われた時に、解り切った事を聞くもんだと少々腹立て、
「そら人間食べないと死んでしまいますが。」
とぶっきら棒に言いました。その時、
「ではあなた方は、食べてさえいればそれで死にませんか。」
と重ねて問われてグッと返答に詰まってしまいました。その時、望月さんは、
「そうですね、私達は食べる為に働き、生きる為に食べていながらやがて皆んな死んでいかねばなりませんね。あなた達は生きる為、食べる為に、こんなに朝から晩まで一生懸命働いておられますがただそれだけで終ってしまうならば、人生とは空しいものですよ。あなた方も、その忙しい仕事の中に、時にはお寺に参って仏様のお話しをよく聞いてくださいね。」
と、言い残して現場を離れていかれたという事であります。私は今この事を静かに思うのです。人間に生まれた本当の喜びは、人生の生と死をはっきり見詰めて、生きてよし死んでよし、という大きな喜びが恵まれる仏法に遇うことでしょう。
日露戦争の時に念仏大尉とうたわれた松崎大尉が戦場に臨むにあたって、
“生きなば念仏申しなん。死なば浄土に還りなん。両々(りょうりょう)花は芳(かんば)し父母の家”
とうたわれました。私達は聞法を通して、み仏の大悲に抱かれてある事に目覚める時に、生死(しょうじ)を超えて生きる道が恵まれるのであります。
“生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける”