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第二章 浄土真宗と他の宗教の違い目

 最近創価学会が非常な勢いで伸び、我々真宗門徒もこれに食われて行きます。この調子で進むと十年二十年後には、私達の浄土真宗はどうなるかと思うと心配でなりませんが、これについて先生は、どう考えられますか?

一、問題は何処に

 この質問は今から十数年前、鹿児島教区の常例布教に巡回した折り、北隅組新照寺(大淵慈教師)で、お話が終り、部屋に帰った時、ちょうど夏の事で、ものすごい夕立ちが来、参詣の人達は帰る事が出来ず、本堂で雨の止むのを待っていました。そこで私は御住職に、せっかく雨待ちをしておられるから、その間もう一度本堂に出て話合いをしましょう、と言って御住職と共に車座に座って話合いした時に、四十歳前後の役場に出ている男の人から出された質問です。

 私はこの時、

 「創価学会については、私なりに勉強していますが、そう心配していません。それは、あの人達は今、教線拡張の為に相当無理をし背伸びをしているようです。私は、よその宗教について、とやかく心配するよりも、もっともっと心配すべき大きな問題が足元にあると思います。それは浄土真宗の門徒と言いながら、ただ名前だけの門徒で、浄土真宗と外の宗教の違い目すら全然解っていない人が余りにも多い事です。これが心配すべき大きな問題だ。」

と答えた事でありますが、皆さん方は如何でしょうか。浄土真宗と、他の宗教との違い目を問われたらどう答えられるでしょうか。私はこの質問によって、この問題について考えてみました。

これについて思う時、昭和四十年八月後期総会所(そうかいじょ)布教の時でした。夜の法話が終わって部屋に帰ろうとした時、四十歳前後の婦人の方が先生にお話を聞いて頂きたい事があるのです、と言われて控えの間で三十分程話しました。色々話された中で、

 「今小学校に行っている女の子ですが親の口から言うのも変ですが、大変宗教心の厚い子どもで、物心ついた時から朝晩仏様のお礼を欠かした事がありません。日曜日に本願寺さんにお参りすると言いますと喜んで先頭に立って参ります。昨年の事ですが、創価学会の人が数人来て、三時間程色々学会について話されました。その中で、
『貴方がたは、念仏という邪教を信仰しているから、何時までも幸福になれないのです。やがて恐しい仏罰が出ますよ。だから早く創価学会に入る様に』
と、強く勧められました。

私はその時、

『私達は家事に追われて恥かしい事ですが、貴方がたの様に詳しく仏様の勉強をしていません。私達が出来ないから、その代りお寺の先生がしっかり勉強していてくださいます。だからそのお話なら、私よりお寺の先生にしてください。先生が、なる程、真宗より創価学会が良いと言われましたら、私達門徒はこぞって入会しますから』
と言いましたら、そのまま黙って帰られました。

その話の途中に、小学五年生の女の子が帰って来ましたが、話が仏様の事ですから、そばに坐って聞いていました。その人達が帰った後で、

 『お母ちゃん、あの人達の仏様は、何かよそを向いておられる様ね。私達の仏様は何時も、私達から目を離さず、ジッと見守っていてくださるんでしょう。』
と申しました。」

 私はこの言葉を聞いて,小さい時から浄土真宗の家庭に育っただけあって、子ども心によく真宗と他の宗教の違い目を鋭く感じ取った事と思いました。

 他の宗教の仏様は横を向いておられるから、こちらを向いてもらうために信心し、お祈りして行かねばなりません。即ち浄土真宗以外の宗教は、全て信心、祈りを条件として救い、又は利益を求めて行くのです。先にも申しました様に、説明の上手下手、教えの深い浅いはあっても、この枠から出るものではありません。

二、三つの問題点

 私はこうした宗教について、良し悪しの批判をしようとは思いません。信教の自由は憲法に保証された基本的人権ですから。しかし私にはこうした宗教は,三つの問題点を持っているからついて行けないのです。その問題点とは、

 一つには、私と神様仏様の関係は、他人の間柄と言わねばなりません。他人の間柄であればこそ、こちらからお願いもし、お祈りもしなければならないのです。例えば私達は子どもの頃病気した時に、

 「おかあさん、私はこんな病気になりました。良くなったら、きっと親孝行して御恩返しをしますから、病気の間すみませんが看病してください。」

と、お願いした事があるでしょうか?又、もし子どもが親の私達にそんな事を言ったとしたらどんな気持ちがするでしょうか?恐らく皆な淋しい気持ちがするでしょう。

 「あんた、何を言うの。おかあさんはどうして黙って、あなたの病気を見ている事が出来るでしょうか?あなたはこのおかあさんの気持ちが解ってくれないの?」

と言うでしょう。他人の間柄であるならばお願いもし、頼みもしなければなりません。今私達が信心してお祈りする事によって救いや利益を求めようとする宗教は、私とその神仏の関係は他人の間柄といわなければなりません。

 二番目には、返事が無いという事です。祈りの宗教では如何に信心しお祈りしても、返事を聞く事が出来ません。これだけ一生懸命お祈りし、信心したから、多分御利益、救いは頂けるであろうと思われても、神様仏様の方から、よろしいお前の信心見届けた、必ず救うてやる、との返事が聞けませんのでこれでいよいよ間違いなくお救いにあずかる、又利益が頂ける、という安心がどうしてもできません。

 三番目には、果たして私達は、神様仏様の心にかなうようなまことの祈りができるかどうかという事であります。私達は、時には自分が幸福になるついでに、他の人も幸せになってほしいという気持ちを持つ事はできますが、自分の幸せを犠牲にしてまでも、他人の幸せを心から願う事は出来ません。これが、悲しき宿業の中に生きる私達の本当の姿です。これは裏を返せば、他人はどうあっても自分さえ良ければよい、という心に通じています。

こうした自己中心の醜い浅ましい心をうちに持ちながら、外に実(まこと)しやかに如何に祈っても、神仏の心を動かす事はできない事でしょう。

 親鸞聖人は、こうした人間の本性を鋭く内省して、『悲歎述懐讃』に、

 浄土真宗に帰(き)すれども
 真実の心(しん)はありがたし
 虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて
 清浄(しようじよう)の心(しん)もさらになし

 悪性(あくしよう)さらにやめがたし
 こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
 修善(しゆぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆゑに
 虚仮(こけ)の行(ぎょう)とぞなづけたる

と、仰せられました。こうした事を静かに考える時に、私には祈りの宗教によっては、救いの道を見出す事ができません。

三、呼び声に目覚める

 こうした祈りの宗教に対して、生きとし生ける者が平等に救われる道を開かれた浄土真宗親鸞聖人のみ教えは、どんな教えでしょうか?

 先ず結論から申しますと、私が救いを求める前に、そなたの為すべき仕事は全て願(がん)も行(ぎよう)も、南無阿弥陀仏と仕上げたから、そのままを安心して親に任せよ必ず救う、と呼び給うこのみ仏の仰せに安心し満足して、お陰様と心豊かに生き抜いていくみ教えであります。

 そこには何の不安も心配もありません。ただ、いい親を持たして頂いて幸せ者よ、という喜びです。これが浄土真宗の救いであります。

 私はかって、この教えに対して一つの不信を持ちました。それは私は仏様に対し、いまだ一度も救うてください助けてください、とお願いした事はありません。頼みもしないのに、願いもしないのに、どうして救おうと立ち上がってくださったか、という事であります。

もっとはっきり言えば、その様に説けば皆が喜ぶからと、一宗教的天才児が都合の良い様に勝手に考え出した事ではないか、という事でした。私は長い間、この疑問を胸に持って悩んで参りました。しかしそうした疑問が起きたのは、私の仏教の勉強が足りなかったからであります。

 今この問題を考える時に、仏様とはどんな方かという事をよく理解しなければなりません。今日世間では、多く死んだ人を仏と申しますが、これは間違いである事はいうまでもありません。死んだ人は死人(しびと)であって、仏ではありません。その人が生前、本願を信じお念仏を喜ぶ人であったならば、今はお浄土に生まれて悟りを開き、美しきみ仏となっておられるだろうといえますが・・・。

 そこで、仏とはインドの言葉では仏陀(ぶつだ)、中国語に訳して覚者(かくしゃ)、と言い日本語ではホトケと申します。覚者とは覚(さと)った方、ホトケとは煩悩がほどけたという意味で、何れも真実の智慧を開き、宇宙のまことの道理である因縁無自性(いんねんむじしょう)の法の悟り、この法を身につけた方であります。

身につけるとは、まことの法に同化し一体となる事です。因縁無自性の法とは、深い意味を持っておりますが、解り易く言葉を和(やわ)らげて申しますと、宇宙の生きとし生ける者、赤の他人は一人も無いと言う事です。私達は自己中心の我執(がしゅう)の迷いの心から、常に自分と他人を区別して見ておりますが、覚りの眼には、全てが平等一体と見えるのです。この事を行基菩薩は、

 “ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば
  父かとぞ思う、母かとぞ思う”

とうたわれました。今、人間と山鳥と、境遇の差はあっても宇宙のまことの道理から申しますと、決して赤の他人ではないのです。この道理を身につけられた覚者、即ちみ仏は、三界は我が有(う)(国)なり、その中の衆生は我が子なり、と御覧になります。この境地を、

 “衆生苦悩、我苦悩、
  衆生安楽、我安楽”

とも言われております。すれば仏様の知恵の前に、苦しむ私達の姿が映った時、それがそのまま仏の苦しみとなります。この事を『維摩経(ゆいまきよう)』に、

 “衆生病むが故に菩薩病む”

と説かれています。さすれば、仏と私は決して赤の他人の間柄ではありません。故に、苦しむ衆生ある限り、仏の苦悩は続きます。仏の苦悩を払おうとすれば、衆生の苦悩を払わねばならないのです。衆生の苦しみを我が苦しみと見る、これを同体の大悲と申します。故に私は救うてくださいと、頼み願った覚えはないけれども、仏は救わずにおられないのです。ここに、衆生救済の為に、み仏は立ち上り、五劫の思案と長い間の修行があったのです。この事を親鸞聖人は、

 “弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人(いにん)がためになりけり。されば、それほどの業(ごう)をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ”(『歎異鈔』)

と仰せになりました。

 私はここまで話した時に、子どもの頃の事が懐かしくまぶたに浮かんで参ります。それは小学四年生の三月、修了式の日の事です。成績が良くて色んな賞状賞品を貰ってきました。それを母に見せると、一枚一枚の賞状を、何ともいえない嬉しそうな顔をして眺めています。あまり嬉しそうにしているので、

 「おかあさん嬉しいか?」

と言いますと母が、

 「そりゃ嬉しいよ、親じゃもの」

この一語が、今も私の脳裡に強く刻まれて、それより半世紀、嬉しい時苦しい時に、この母の言葉が懐かしく甦って参ります。

 仏様が何故私を救うと立ち上がってくださったのでしょうか?それは真実の親だからである。この一語に尽きるでしょう。

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