輝くいのち/賞雅哲然 目次
第七章 仏法がわかるとは
先生、この間親しい方に、あなたもお寺にお参りしませんか?お寺には立派な先生が見えて良いお話がありますよ。と勧めましたら、坊さんの話し位は解っているから・・・こんな事を言われるのですよ。
一、本当に解っているのでしょうか
これは毎月二日の夜開いている『歎異鈔』 の集いの時話合いの場で、会員の本田フジさんから出た言葉であります。私はそれ以来、この言葉が今も頭に残っています。もし私にそう言われたならば私は、
「あなたは坊さんの話し位解っていると言われますが、本当に解っているのですか?」
ともう一度問い返してみたい気がするのです。更に、
「私もあなたもやがて人生の終着が来ますが、その時にあなたにはどうなるかそれが解っていますか?もしそれが解っていなかったら仏教は、少しもあなたには解っていないという事ですよ。」
と。信仰の世界では仏教や真宗の教えにどんなに詳しくても、自分の命の行方が解っていなかったら全く無意味な事と言わなければなりません。蓮如上人は御文章に、
それ、八万の法蔵(ほうぞう)をしるといふとも
後世(ごせ)を知らざる人を愚者(ぐしゃ)とす。
たとい一文不知(いちもんふち)の尼入道なりといふとも、
後世(ごせ)をしるを智者(ちしゃ)とすといへり。
と仰せになったのは、この意であります。即ち命の行方の解った人が本当の智者であり、そうでない人は愚かな人というお諭しであります。この事を思う時に私達は、仏様の教えの本当の目的が何処にあるのか、という事を先ず理解する事が一番大切と思います。
二、真理を解く鍵
私達の等しく願っているものは、幸福であるという事は言うまでもありません。私達は毎日毎日忙しい忙しいと走り回っていますが、何故そんなに忙しく走り回っているのでしょうか?それは家族や自分が少しでも幸せになりたいという願いの為であります。それで幸せとはどんな事かと考えた時に、私にはその条件として、次の5つが考えられます。
一、経済的安定
二、健康
三、明るい家庭
四、高尚な趣味
五、名誉
今日の現実の社会にあって、経済的な安定がなければ幸せを感ずる事はむつかしいとは誰しもうなずかれる事でしょう。大分前になりますが、私の親しい中学校の校長先生がこんな話をされました。学校で家庭の問題について世論調査をされた時に一人の生徒が、
「うちのお父さんとお母さんと時々喧嘩されるので私は困ります。お金が無くなるとすぐ喧嘩されます。」
と書いていたそうです。これも現実としては止むを得ない一面でしょう。
次に健康でありますが、どんなにお金を持っていても薬瓶を抱えて寝ていたのでは幸せを感ずる事は出来ません。私が両眼手術の為に入院している時に門徒の方が見舞いに来て、
「先生はかねて忙しいんだから、こんな時でもゆっくり静養しなさい。」
と言われました。私はその時、
(病院で静養しているよりも、家で忙しいと走り回っている方がよっぽど良い)と思いました。
次にどんなにお金が有り健康であっても、心身の憩い場所である家庭が乱れていて親子兄弟夫婦の間に冷い隙間風が流れていては、幸せとは言われないでしょう。又人それぞれ高尚な趣味を持つ事が、どんなにその人の人生を豊かにし潤いを持つかは言うまでもありません。
最後に名誉でありますが、名誉欲といえば頭から悪いものの様に思われ勝ちです。勿論これに溺れる事はいけない事です。しかしお釈迦様は、名誉欲は睡眠欲や食欲と同じ様に、本能欲の一つと説いておられます。従って分相応の名誉欲を充たす事によって私達は幸福を味わう事は否定できません。
私達の日々の活動は、この五つの条件を満たす為の動きに外なりません。しかしこの五つの条件を満たす事はなかなか困難で、一つが叶えば一つが欠ける事が世の中の習いでしょう。
ところがこの五つの条件を、生まれながらにして兼ね備えた方があります。それがお釈迦様でした。お釈迦様は富み栄えたカピラ国の王子としてお生まれになり、四季それぞれの御殿を与えられて、何不自由なく過ごされていました。
またお釈迦様は健康であったと説かれています。成長されてやがてインド随一の美人とうたわれたヤショダラ姫を妃に迎えられて、ラゴラという子どもをもうけられましたから、明るい家庭もありました。またお釈迦様は諸芸に通じておられたと経典は伝えていますので、高尚な趣味も持たれていた事でしょう。また皇太子でありましたから、やがて最高の王位も約束されていました。
私達の求めて止まない五つの条件を完全に掌中に収めながら、これを惜しげもなく捨てて出家されました。それは何故でしょうか?ここに私は、仏教の真理を解く鍵があると思います。
三、人生そのものの問題
人生には二つの問題があります。一つは人生の中の問題、二つには、人生そのものの問題であります。人生の中の問題とは、私達の生活の上に起こってくる経済とか健康とか家庭という様な諸々の問題であります。
次に人生そのものの問題とは、生きとし生けるもの全ての人が生まれながらにして抱えている生老病死の四苦であります。これを生死(しょうじ)の問題といわれて何時の時代でも誰しも逃れる事のできない苦しみでありますから、人生の根本問題と言われています。従って如何に人生の中の問題が解決されても、人生のこの生死(しょうじ)の問題が解決されなかったならば、人生の中の問題までも、本当の解決にはなりません。
例えて申しますと家を建てた時、床柱、天井板、建具等申し分なく備えられても、基礎工事が充分でなかったらやがて家全体が傾いて、これ等が役に立たなくなる様なものです。
お釈迦様は青年の心にこれを鋭く感じて生死(しょうじ)の問題の解決を求めて、出家されたのであります。この事は、伝えられる四門出遊(しもんしゅつゆう)の物語りによく現わされています。
深く人生について考え、物思いに沈んでいられた悉多(しつだ)太子(お釈迦様)の事を心配された父の王は、心を晴らさせる為に、城外への散歩を勧められました。素直なやさしい悉多太子は、父王の言葉のままに東の門を出られました。そこに一人のみすぼらしい老人が目にとまりました。杖にすがってよぼよぼ歩むあわれな姿を御覧になった時、どんなに若さを誇っていてもやがて年老いていかねばならぬと感じられた太子は心が重く、そのまま城にお帰りになりました。
その後、南の門を出られた時には、あわれ病み衰えた病人の姿が目にはいりました。今どんなに健康であっても、やがて病魔に冒され行く我が身の事を思われた時に、心は沈んでそのまま城に引き返して行かれました。
日を改めて西の門から出られた時に、お葬式の行列に会われました。何時何時までも生きたいと願いながらやがて必ず、死を迎えねばならない悲しき人の定め、運命を感じられた時に、心は閉ざされてさみしくお城に帰っておしまいになりました。
今度は北の門から出られた時に、一人の出家に逢われました。粗末な衣服をまとい粗末な食物に甘んじながらも、何か人生の大事な問題を解決した心のゆとりは、澄んだ瞳、柔和な姿に現われ、その気高さに太子は強く心をひかれて、出家への憧れがいよいよ深まって行きました。
経典は四門出遊(しもんしゅつゆう)をこの様に伝えています。そうした事実があったかどうかは勿論問題でありません。悉多太子が人生を深く見つめて、生老病死の根本的な苦悩を如何に解決しようかと悶々と悩まれた心の動きをつぶさに伝えています。ここに仏教のねらいとしているものが何か、という事をはっきり知る事ができます。
親鸞聖人はこれを生死(しょうじ)出ずべき道と受けとめられました。生(しよう)死(じ)出ずべき道とはこれあるが故に生きられる、これがあるが故に死ねる、という事であります。この生死の問題が解決された時に、人生の中の問題も自ずと、それぞれの道が与えられるのであります。仏教の課題とは正にこの生死の問題の解決であります。
四、命のふるさと
ここまで考えて来た時、全ての人々が幸せを求めながら真実の幸せは、今迄気付かなかった所にある事を知る事ができました。今迄は目の前の経済とか健康、家庭、そうした所に幸せがある様に思っておりました。勿論それは幸せの素材でありますから大切な事はいうまでもありませんが、それより先にもう一つ大切な物があるという事であります。それを私達は見落としてはなりません。これについて私は広島の友人からこんな話を聞きました。
広島県の瀬戸内海に浮ぶ或る島に、(ここは大正昭和にかけて人情大臣とうたわれ、お念仏の信仰に生きた望月圭介(もちづきけいすけ)氏の出られた島で、今も浄土真宗の信仰の厚い所です。)そこに、広島大学の医学部の先生が、健康についてお話しに行かれました。お話が終って話合いに移った時に一人の方が、
「先生、今日は私達に大変有益なお話ありがとうございました。私達は命ある間、健康に気をつけながら明るい人生を送りたいと思います。けれどもどんなに健康に気をつけても私達はやがて死んでいかねばなりません。だから安心して死んでゆける、そうしたお話しも聞きたいのです。」
と言われました。後でこの先生が、
「人生の幸せは健康が一番だと思っていたが、それより以前に大切な物があるという事を、私はこの人によって教えられました。」
と話されました。
私はこのお話を感銘深く聞いた事でした。私達の末通(すえとお)った真の幸せは、人生の一番大事な生死(しょうじ)の問題の解決という事であります。それは聞法を通してこの限りある無常の人生にありながら、限りない永遠の世界を心に感じつつ、帰るべき命の故里を知らされた喜びであります。ここに悩み多い人生を力強く生き抜く道が与えられるのです。或る妙好人(みょうこうにん)が、
「死ぬじゃござらぬ、帰るでござる。」
と一言のもとにズバリと言い切っていますが、これでこそ仏教が本当に解ったと言えるのであります。私達は生涯を通して聞法につとめましょう。