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はじめに

 出版に寄せて/藤岡義昭
 はじめの言葉

出版に寄せて/藤岡義昭

 賞雅さんは私の永年の友達であり、色々の仕事を一緒にした仲間であります。もう長い交際になりますが、彼は若いときから視力が充分でなくそれが年とともに度を増してようであります。とても一人歩きは無理だと思われるのに、布教の為に遠いところまでも一人で出かけることがしばしばありました。私どもは驚いたものです。伝道に対する熱意がそうさせたのでしょう。彼は門徒の方々をはじめ各方面の人々と、対話形式による伝道に意を用いた人であります。それが大きな成果をあげたといえましょう。

 物心両面という事がありますが、心の面は右に述べたとおりですが物の面にも触れなければなりません。明信寺といえば知らぬ人もない程のお寺ですが、その本堂は長い風雪に晒されて損傷が甚だしく、改築の必要に迫られていました。彼はその頃、視力が非常に衰えて既にその働きを、殆ど失っているのではないかと、第三者の私どもは思っていました。

 それでも毎日のように昼と言わず夜と言わず門徒さんを訪ねて募財に務め、驚くべき成績を上げました。そして全くすばらしいものを造り上げて、私どもは目を見張ったものです。

 その人が多年の思いをこめて本を出版することになりました。長い間多くの人々と御法義の話を取り交わしたことを基とし、生活に即したわかり易い真宗の教えを述べようとするものです。まことに、時と人とに相応する企てというべきでしょう。困難な事情を乗り越えて出版に取り組まれた勇猛心に、心から敬意を表します。又自分で筆を執ることのできないもどかしさ。そしてそれを助けるご家族のご苦労がしのばれます。それだけに、この書が一層価値あるものになりましょう。

  法兄のますますのご活躍と御法義の繁盛を、心から念ずる次第であります。

   昭和55年春彼岸
 
                      指宿、乗船寺にて  藤岡義昭

はじめの言葉

 1980年は我が宗門にありては誠に慶賀すべき年であるます。第24世光真門主の伝灯報告法要が、一千万門信徒の待望のうちに前期、後期にわたって厳かに執り行われ、また光真門主の意図によって宗門の長期発展計画が樹立されて着々実践に移され、宗門の新しい歴史は力強く開かれようとしています。否、開かれつつあります。この記念すべき年に当たり愚生61歳の馬齢を加え還暦の記念にこの小著を世に送ることは、誠にこの上なき幸せとおもいます。

 浄土真宗は叩けよ開かれん、求めよ与えられんの宗教ではなくて、既に救いの扉は開かれ、御仏の慈悲の光は一人一人の私の上に注がれています。聞法を通してこの大悲に触れて行くところに宗教生活、即ちお念仏の生活があります。

私は昭和22年10月、くしき縁(えにし)に結ばれて大阪府茨木市車作、法林寺より鹿児島県日置郡日吉町明信寺に、住職として迎えられました。それより春風秋雨30余年の星霜が夢と過ぎ去りました。

私はふと、僧侶になった喜び、住職としての生き甲斐を感ずる今日この頃であります。それは門徒の家庭に出かけ10人あるいは14、5人の人々と話し合い法座を開き、そこにお念仏による温かい心のふれあいを感ずるからであります。その話し合いの場で出された問題を手がかりとして今まで各地で話したこと、また平素の考えをまとめたのがこの小著であります。時々、法友同行の方々から法話集を出されては、との勧めも受けましたが、怠惰な私にはつい延び延びになっていました。

 いつの頃からか現れた網膜色素変性症の上に白内障がでて、昭和47年11月両眼手術をし、今はペンも執りことも出来なければ一人で歩行することも出来ない状態であります。もしこの小著が愚生に代わって法友同行の方々の聞法の手引きとなればと思い、万難を排して発刊に踏み切りました。

 18章よりなっていますが、第18願にちなんだものであります。一章々々独立しておりますので、読者の皆様は章にとらわれることなく目次を見て、自由に読んで頂ければよいと思いますが、前半は宗教と生活の関わり合い、後半は他力信仰の風光を明かにしたいと務めました。

この小著発刊にあたって、鹿児島に入寺以来いろいろご指導、ご鞭撻をいただいた藤岡義昭先生より序文の玉稿をいただいたこと、また永田文晶堂店主に、ご協力いただいたことを深く感謝申し上げます。

     1980年4月
                           賞雅 哲然

あああ

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